四国88カ所遍路

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四国には88か所のお寺があります。そして、四国のお遍路は大変です(当たり前)

だからこそ、意味があるのかもしれませんが、現代人にそんなに時間的余裕がある訳もなく、過去の産物と化している感があります。

歩いて四国を回るのか・・・。昔の人は本当にすごい。ましてや、今より食物も少なかったはずでしょうし、ちょっとお腹がすいたからコンビニっていう訳にもいきません。ほとんど、命がけです。現代の日本で、信仰に命を懸けられる人はどれほどいるでしょうか。

逆に、クルマで簡易的にお遍路をするのは果たして意味があるのかどうか。

ましてや、ツアーのバスなんて・・・。

どうなんでしょうかね。

 

近代では、信仰というよりは、「自分探し」や「観光」として参加される方が、大多数かと思います。

とりわけ、海外では観光として来られる方が多いようです。確かに、世界的に見ても、こういった行事?慣例?はあまり見ませんね。そういった意味でも、存続していく意味はありそうですが。

起源でいうと、1600年頃から巡礼されていました。昔は、ガチの巡礼だったようです。病気を治したいとか罪を悔い改めたいとか。いつ頃からそう言った信仰心を、日本人は失くしてしまったのでしょうか。僕は生まれていませんが、恐らく第2次世界大戦後ではないでしょうか。

 

日本は、世界に類を見ない無宗教国家です。オウム真理教などの報道の影響の為か、宗教という言葉を毛嫌いしている方が、大勢います。キリスト教でさえ、変人扱いされてしまいます。それは、変な噂や宗教への恐れが招いた結果でしょう。

その原因の一つは、メディアです。オウム真理教の報道により、宗教への恐怖が一気に増しました。あくまで、周りに熱心な宗教活動をされている方がいないため、そのように見受けられるという、個人的な見解です。

ちなみに、僕はキリスト教信者です。僕の場合は、陰謀論から入ったため、変な偏りがない状態で、神様の存在を知ることができました。以後、出会ったクリスチャンの方々は、今まで、様々な宗派を渡り歩いて、宗教の本当に意味を悟った、という方が大勢いらっしゃいました。

これは、明らかに情報量の違いです。僕は、全くの無宗教の状態から、ネットで陰謀論を見始め、その最終地点として、イエスキリストという神様に出会いました。

僕が出会ったクリスチャンの方々は、情報といえば聖書しかありませんでした。その中で、答えを見つけるのは極めて困難だったことでしょう。様々な宗派を渡り歩き、何十年の時を経て、神様に出会ったのです。それを僕は、半月程度で出会ってしまいました。その出会いの重さは、天地ほどの差がありますが、聖書しかない状況でも尚、神様の存在を信じ続けて、様々な壁を乗り越えてこられたと考えると、僕の宗教観なんて全くの思い込みにすぎません。

僕が信じる神様の言葉は「ただ目の前の人を愛しなさい。」という言葉だけです。しかも、このソースはYOUTUBEです。

僕の人生を変えたというと大げさかもしれませんが、(というのは、僕が何かしらのきっかけを探していただけかもしれません)この動画で僕の人生の方向性は、大きく変化しました。

少し長いかもしれませんし、これを見てどう思うか(真実を語っているか、嘘をついているか、あるいは妄想なのか)はあなた次第ですが、僕はこれ以上ない人生の真理だと感じました。

 

にしても、「目の前の人を愛する」というのは、すごく難しいことです。後半にこの方がおっしゃっていますが、愛するということがどういうことかを、考えさせられる毎日です。

結局は、エゴとエゴのぶつかり合いで終始することもしばしば。恋人に愛を注ぎすぎると重いと言われ、最も愛してくれている両親には、感謝の気持ちを持てなかったり。

自分にとっての「愛」と、相手にとっての「愛」。愛という概念は、あまりにも抽象的すぎます。

愛とは、相手を幸せにすること。言葉でいうと簡単です。相手が本当にしあわせかどうかなんて、心を読めない限り分かりませんし。愛する人が甘党だからと言って、甘いものをあげすぎると、病気になります。それでも、幸せな人もいるでしょうし、逆恨みされるかもしれません。

小さな親切、大きなお世話とはよく言ったもんです。

そうやって深く考えていくと、ますますわからなくなります。そもそも、答えはありません。

誰かの事を本気で考えれば、それは愛を与えている事になるのでしょうか。

それ以上に言いようがないですよね。

相手が幸せかどうかも大切かもしれませんが、一番大切なのは、本気で考えられる相手がいるかどうかではないでしょうか。幸せにしたい誰かが居るというのは、それだけで自分の存在意義を証明できる気がします。

 

自分探しの旅なんて言葉が以前よく聞かれましたが、果たして答えが見つかった人がどれほどいるのでしょうか。

旅するぐらいで本当の自分が見つかれば苦労なんてしません。

旅も旅行も観光も、現実逃避です。現実から逃げたいだけ。

お遍路という格式のあることを成し遂げて、認められた現実逃避をしたいだけなんです。

これは、宗教的な理由の方には、恐らく当てはまりませんが。

 

いや、むしろ宗教こそが現実逃避なのだろうか。

僕が神様を信じ始めたのが、精神的にかなり参っていたころです。

逆にそうじゃなきゃ、間違いなく出会わなかっただろうと思います。そういう出会いってありますよね。

 

僕が小さかったころ、お遍路さんがよく家の前を通りかかり、「シャン・・・シャン・・・」という杖の音を聞いて、飛び出していました。

 

「はぁ・・はぁ・・ふー。お遍路さん、お金ちょーだい!」

今思えば、なんてけったいなガキだったんでしょう。はずかしくなるというか、惨めになります。(特別に貧乏だったわけではありません。)

でも、お遍路さんはだいたい、500円玉をくれました。子供にとっては大金です。

でも、僕の記憶にその人の名前が刻まれているわけでもなく、その遍路さんにとっても直接的な見返りはありません。

 

これはまさしくお賽銭と同じですね。

お賽銭やお布施というのは、神様にあげるのではありません。(実際は、住職さんにあげることになりますが)

自分のけじめなんです。自分を戒めているんです。(本来は)

 

良いことをしている自分が皆さんお好きでしょう?この感覚を人間が持って生まれて、本当に良かったですね。

 

お遍路やお賽銭というのは、自分をより好きになるための手段なのかもしれません。

 

追記

なんかこいつひねくれてんな。。。

2か月前の自分が書いた記事ですが、かなり心が荒んでいたようで、申し訳ありません。不快な思いをした人がいるかもしれませんが、なんか消したくない。かなり嫌味っぽく書いてますが、これが2か月前の僕です。

それからこの2か月間で色々ありました。こんな僕でも、少しずつですが、成長できているようです。その変化をお楽しみください。というか、悲しいかな、誰もこのブログを見ていないようなので、いつかの自分へのメッセージになりますが。。。


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